プロレス愛に満ちたアプローチ~棚橋弘至選手の全力プロモーション~ | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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私がプロレスファンになったのは1992年のことです。プロレスファンになってから自分にとってのヒーローだったのが、武藤敬司選手と三沢光晴選手。とにかくかっこよかったんです。夢や希望を託せるスーパースター…それが私にとってはこの二人でした。

プロレスを見始めた頃にデビューしたレスラーも思い出深いものです。秋山準選手、中西学選手がデビューした頃の試合は印象に残っています。彼らは新人ながら、トップ戦線で闘っていた姿を見て、新人のプロレスファンだった私は彼らに感情移入したものです。

それから数年が経った1999年10月11日、一人のレスラーがデビューします。それが新日本プロレスのエース棚橋弘至選手です。



棚橋選手については以前、新旧洋邦のプロレスラーを考察する連載「俺達のプロレスラーDX」で取り上げたことがあります。


またこの「俺達のプロレスラーDX」が原作となった電子書籍「俺達が愛するプロレスラー劇場 vol.1」でも棚橋選手を取り上げました。


 今回は少し違った視点で棚橋選手について書きたいと思っています。さて、棚橋選手のデビュー戦が書かれた雑誌記事を見た印象。

「この選手、めちゃくちゃ肉体が仕上がっている!」

当時から100kg近い肉体を誇っていた棚橋選手、身長は181cmだったのですが、見た目からするとヘビー級ではなくジュニアヘビー級の選手でした。当時、新日本にはジュニアの超竜と呼ばれたパワーファイター高岩竜一選手がいたので、彼みたいなスタイルになるのかなと思っていました。

そんな見方が変わったのが2001年4月のこと。怪我から復帰した棚橋選手は黒のショートタイツから赤に白のラインが入ったスパッツに変わったんですよ。さらに茶髪にもなってあか抜けた印象を受けました。「俺が新日本の若手戦線を変える」といったことをヤングライオン時代から言っていたので、前座でありながら、将来を見据えて、いざとなればトップを虎視眈々と狙おうと考えていたかもしれません。

棚橋選手自身はパンプアップした肉体に関してはあくまでもプロレスラーになるための最低条件で、彼が勝負したいと考えていたのはレスリングでした。だから藤波辰爾選手の無我にも興味があって、後に本当に参戦していました。パワーではなくテクニック。そこは今も昔も棚橋選手のスタンスは変わりません。

この頃の棚橋選手の印象。分かりやすく言うと武藤敬司選手と馳浩選手。二人を合わせたような感じがしました。武藤選手の太陽のような明るさと馳選手のインテリジェンスさも併せ持つプロレスラー。なかなかいないタイプだったかもしれません。当時の新日本は現場監督の長州力選手の移項なのか、本当に長州選手に似ていたり、長州選手好みのレスラーが多かったように思います。パワーファイターやブルファイターが多くやや偏っているという感じですね。

技も華麗といいますか、飛び技、スープレックス、関節技とマルチでした。飛び技に関してはムーンサルトアタックやスカイツイスタープレスとかもやっていたんですよ。でも、よく覚えています。当時体重を109kgくらいに増加していたため、スカイツイスタープレスはきりもみ式の回転がきれいではなくてゴツゴツしていたんですよ。華麗ではなく、雑に見えたんです。多分自分に合った技を使えてなかったのかもしれません。だから飛び技をハイフライフローやエプロンから走ってトペコンヒーロとかに限定したのは正解だったと思います。

ただ後々に考えると、自分に合った技を模索していたのかもしれません。棚橋選手は武藤敬司選手の付き人もしていましたし、元々ファンだったわけなので、ムーンサルトプレスとか何かしらの派手な飛び技をしてみたいという欲はあったのでしょうが、飯伏幸太選手や丸藤正道選手のようなめちゃくちゃ身体能力や運動神経が高いわけではないということを踏まえて模索して、最終的にハイフライフローに繋がったと思います。

棚橋選手のすごさは自分自身の長所と短所をよく分かった上で行動していることだと思います。多分自分自身を相当分かっていないとできないですし、自問自答を繰り返してきたのでしょうね。特に短所に対してどう向きあい、どう補うのか。そこは特に難しい。なのでこれができるという点で棚橋選手は他のレスラーと大いに違うのだと思います。

ヤングライオンで新人生活を送り、海外遠征で経験を積み、凱旋してからスターになるのがよくあるプロレスラーのパターンだと思います。結果的に棚橋選手はそのパターンをしなかったんですね。なので日本で成長して、日本でスターになった希少価値のある人ですよね。

20代後半から30代の棚橋選手がいた新日本は暗黒期に突入します。プロレスラーとして大変な時期を生きることになった棚橋選手、この頃は割りと自分がやりたいことをある程度は見えてきていたのかもしれません。ただそれをより遠くまで波及効果を及ぼすほどの力がなかった。実力やテクニックがあっても説得力が不足していた。説得力を増すには、試合のクオリティーや名勝負を残すことが近道。でもそこまでの作品は残せないでいた印象がありました。

それでも棚橋選手は目に見えないところで思案していたと思います。こういうのを多分、暗中模索って言うのかもしれません。2006年7月に念願のIWGPヘビー級王者になってもそこまで好転しません。彼はほんの少しだけ見える微々たる光に向かって、きっと未来は明るくなるはずだと思いプロレスをしていたのかもしれません。

そんな状況に少し変化があったのは2007年11月の後藤洋央紀選手とのIWGP戦。この試合で棚橋選手は結構ブーイングを食らったのですが、開き直ってヒール的な動きも見せたり、本当に素晴らしいチャンピオンとしての試合をやってのけたんです。言うなれば、相手の力を最大限に引き出して、最後の最後は勝利するリック・フレアー選手のようなプロレスに現代プロレスをミックスさせたもの。それこそ棚橋プロレスなのかもしれません。この後藤戦が後世に語られる名勝負となりました。

ここからですよね。好かれても嫌われても、歓声でもブーイングでも対応するエース棚橋選手のスタンスが出来上がっていったのです。

2008年の全日本プロレスのチャンピオンカーニバルで棚橋選手は外敵として参戦しました。ここで大ブーイングを食らいましたが、棚橋選手、堂々としていて、それをさらに煽ってましたよね。当時はチャラ男なんて言われていたので、そのナルシストぶりを見せつけるから嫌みに見えたりもして、めちゃくちゃ面白かったんですよ。でも、中盤戦でヒザが壊れてしまって動けなくなって…。新日本も全日本も含めて周囲はみんな止めたんですよ。試合を欠場しろって。でも棚橋選手、それでもリングに上がって準優勝。本当に立派でした。

棚橋選手はIWGP王者になってから、全国各地のプロモーション活動を一人で担うことになりました。小さなことからコツコツと彼は営業に走るんです。プロモーションのためにどんな小さなところでも握手会やったり、コミュニティFMに出たりとか。しかもサイトの連載やら諸々と抱えていましたから、一年間で休みはほぼない状態が長く続きます。24時間365日、何かしら働いていたわけですよ。本人は「プロレス全力プロモーション」だって言ってましたけど、本当にそうですよね。プロレスを知ってもらうこと、まずは棚橋選手という人間に興味を持ってもらうことから始めたんですよね。

棚橋選手の全力プロモーションも効果もあったり、2005年からオーナーとなったユークス体制になったことなど浮上するきっかけをつかんでいった新日本は次第に復活の狼煙をあげていきます。

そして2012年ブシロード体制に代わり、新日本は大躍進。棚橋選手は新日本だけでなく、プロレス界のエースとなったのです。

棚橋選手、本当に報われましたね…。

でも棚橋選手の闘いはここからが本格的に始まったのです。団体は立ち直った。プロレスのエースとなった。そこで立ち止まると、かつての暗黒期に戻る。ならば世間と勝負だ。

棚橋選手、そこからさらにプロレス全力プロモーションを加速させるのです。テレビやラジオ、雑誌、サイトなどなどあらゆる媒体にフットワークよく出て、プロレスを広めていく活動をされるようになります。本当に頭が下がりますね。棚橋選手の知名度はかなり上がっています。情熱大陸に出たり、映画主演、NHKのこども番組のレギュラーとか、もう成り上がっています。多分さらに成り上がっていくとは思っていますよ。

一方、プロレスラーとしてはまず自分の技を一つ一つ丁寧に使うことによって、より繊細で緻密さが際立つようになりました。いわゆる引き算のプロレスですよね。大技乱発の時代の中で敢えて技を選別していくスタイルは、異彩を放ちます。これは別の方も言われていましたが、四天王プロレスがあったりして、技の危険度が増していく傾向に楔を打ったのは棚橋選手のプロレスだったと思います。

さて話が変わりますが、2014年に私はTwitterやブログを始めました。もちろん、早い段階で棚橋選手のTwitterはフォローさせていただきました。棚橋選手のプロレスを見て、やっぱりこの人がいるから今のプロレスはあるよなって感謝しながら追っていました。

そんなある日のこと。私のブログである記事にどんどん「いいね」が押されていたのです。そのスピードは尋常ではありませんでした。なぜか分からない、私。真相を究明すると棚橋選手が書いたこのブログ記事が原因でした。



元テレビ朝日のアナウンサーで、かつて「ワールドプロレスリング」の実況もされていた故・中村昭治さんについての記事。実は私はかつてブログで中村さんについて書かせていただいたことがありました。


実は棚橋選手、中村さんについて書こうと思った時にネットで調べると私のブログ記事にたどり着いて、紹介してくださったのです。

その後も翌年にも棚橋選手は中村さんについて書くときに私の記事を紹介してくださいました。

本当にありがたかったですね!ビックリしましたけど(笑)

そこから一年ほど経った2018年4月頃。なんと棚橋選手がTwitterをフォローバックしてくださったのです。いわゆる相互フォローの関係。ビビりました(笑)恐縮至極でした、はい。

いきなりですよ、棚橋選手に絡んだりするのはあまりにも失礼です。いい気になるな、調子に乗るなということです。なのでごめんなさい、しばらく放置していました。

しかし、2018年7月に私は東京でプロレスのトークイベントを開催するという大勝負に打って出ました。


これは博打ですよ(笑)今までネットで公の場にでないでプロレスについて語っていた人間が、いきなり公の場に出る。勇気は入りますよ、でももう何だか開き直っていましたし、電子書籍というものを出してからは自分の作品を世の中に届けることを目的にやってきたので、覚悟は決まっていました。そして、プロレスをもっと多くのみなさんに知ってほしいという気持ちを持っていましたから。

そこで意を決した私は棚橋選手にご連絡させていただきました。フォローしていただいた件やブログで紹介していただいた件、今までプロレス界での功績など感謝と御礼の気持ちを綴らせていただきました。

するとなんと数分後に棚橋選手からご連絡がありました。お礼も言われてしまいました(笑)

本当に神対応!!

そして本題として棚橋選手に以下のご依頼をさせていただきました。

「私の電子書籍二冊を送らせていただけませんか」
「7月のトークイベントの情報拡散のご協力をしてほしい」

すると棚橋選手は両方ともご協力していただきました。まず電子書籍二冊、きちんと棚橋選手の元に届くように段取りをさせていただき、トークイベントに関してはG1CLIMAX開催期間中だったのですが、Twitterでイベント情報拡散のご協力をしていただきました。あの時に棚橋選手がイベント告知をリツイートしてくださったのはそのような事情でした。棚橋選手、ありがとうございました!この恩、ずっと忘れません!

ここから棚橋選手とはご縁を大切にしたいなと思いながら、やり取りをさせていただいております。いつもありがとうございます!棚橋選手からもさりげないのですが、ためになるお話や金言をいただいたりもしています。

そういえば…。
棚橋選手主演映画「パパはわるものチャンピオン」が公開されたときですよ。棚橋選手からも「いい映画だから、見に行ってよ」とか言われましたので、子供を連れて映画館まで見に行ったんです。そしてレビュー記事を書きましたよ。


棚橋選手、Twitterでリツイートしてくれましたね。私としては少しでも恩返しがしたかったし、この映画がヒットすることは必ずプロレス界に還元されると思ったんです。これからもいざという時が来たら、何かしらのバックアップはしていきますよ!恩返しはまだまだ続きそうです。

そして2019年3月14日、新日本プロレス奈良100年会館大会。私は久しぶりにプロレス観戦することになりました。目的は今の勢いに乗っている新日本を体感すること、そして棚橋選手の試合を見ることでした。




棚橋選手には当日試合を見に行きますということはお伝えしました。私はどうしても棚橋選手に直接お会いしてご挨拶させてほしかったのです。

興業が終わり棚橋選手には会えなかったなと思って、会場の駐車場に戻ろうかなと思っていたその時でした。棚橋選手からご連絡がありました。

「今から近くのホテルに向かいます。よかったら来られますか?」

えええ!遂に来ました!!
こういうときにいうのですよ。

「とうとう来たな!この時が!」

そして棚橋選手が宿泊しているホテルに向かいまして、そこで棚橋選手とロビーでご対面!深くお辞儀をさせていただき、両手で握手をさせていただきました。

「ようやく会えましたね(笑)」

これは多分、私も棚橋選手もどちらともなくそう言ったと思います。そこからロビーのイスに座り二人で少し雑談させていただきました(笑)棚橋選手とのこれまでの関係の振り返りや近況報告、骨法がなぜか私の界隈で流行っていますということは言いましたよ(笑)

そして最後に記念撮影です!
ブラックタイガーのマスクを急遽用意しまして、写真を撮ることができました!


こうして奈良大会に行った目的を完遂したところで、棚橋選手とは来るべき次の再会を誓ったのでした。棚橋選手、ありがとうございます!

さて棚橋選手の歩みを振り返りつつ、私と棚橋選手の不思議な関係も一部ご紹介させていただきましたが、棚橋選手について考えるとこの人のスタイルは実は昔から一貫しているんですよね。

棚橋選手は、どんな相手でも、どんなシチュエーションでもその場や相手に応じたアプローチをされてきたのだなと。私のような人間にも親切丁寧に対応してくださるのもそのアプローチから導かれたものだと思います。最初はそのアプローチが失敗でも、きちんとラーニングして微調整して、見事なアプローチに成功する。本当にそれは日々の積み重ねですよね。棚橋選手の才能は自続力(自分を続ける能力)と物事や人との絶妙な距離感ではないかと思います。そしてそのアプローチにはプロレスへの愛が内在しているのです。

棚橋選手がもう10年来されてきた全力プロモーション。今もその活動は継続されています。私が以前棚橋選手に「プロレスをもっと世の中に届けていきたいんです」と言ったとき、棚橋選手は「全力プロモーションですよね!」と返答してくださってハッとしたんです。

棚橋選手はプロレス界のエースでスーパースター、私はプロレスブロガーでありプロレス考察家。天と地ほど格差はありますし、立場が違います。棚橋選手は凄い人ですが、私はどこにでもいる凡人ですよ。でも「プロレスを愛する気持ち」や「プロレスをどんどん世間に届けていきたい意欲」で私と棚橋選手は繋がっているのかなと。その気持ちにおいてはプロレスラーもプロレスブロガーも関係なく、プロレスというジャンルを盛り上げていけたらいいなって思ったんです。

棚橋選手はプロレスの力を信じているし、私もプロレスの力を信じています。みなさんもプロレスの力をこれからも信じていきましょう!

最後になりますが、棚橋選手ありがとうございます!今後ともご活躍を期待しております!

プロレス愛に満ちたアプローチで、もっとプロレスを盛り上げてください!



「愛してまーす!!」




PS これは一生の宝物です!棚橋選手、いつかまた…。